「やり方」と「ふつう」 松岡 秀紀(ヒューライツ大阪 一般財団法人アジア・太平洋人権情報センター)

松岡 秀紀(ヒューライツ大阪 一般財団法人アジア・太平洋人権情報センター)

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もうかなり以前のことになるが、初心者にパソコンを教えていたことがある。その時に考え出したキャッチ(川柳?)のうち受講者に人気のあったのがこれだ(ちなみにWindowsでの話。Macなら「コントロール」は「コマンド」?)。

わかりやすいキャッチやキーワードを適切に伝えると、人はよく覚えてくれる。ここ数年、講演やセミナーで「CSRと人権」といったテーマで話をすることが多いが、その際にもキーワードを示して話をすることがよくある。

その一つが「やり方」。

CSRやSRは「やり方」の問題だ。組織の、そしてその一人ひとりの構成員の、何よりも仕事のやり方の問題だ。賛否両論はあると思うが、かの「豆乳CSR」のたとえのとおり、プロダクトである豆乳それ自体をもってCSR(SR)だとするのは、やはり無理があると私は考えている。セミナーなどでは、ある環境対応車の名をあげて、たしかに環境保全に資する、そしてイノベーションをもたらすプロダクトかもしれないが、加えて重要なのは、それをどのように作るか、素材や部品やエネルギーはどこから来ていて、そのサプライチェーンの先に問題はないか、また、素材や部品やエネルギーを集めて製造する過程で労働環境に問題はないか、といったことはどうなのか、その部分に責任を持つことがCSR(SR)なんだという説明をすると、聞いている方々は大体納得した表情をしてくださる。つまり「どのように」つくるか、「どのように」サービスを提供するか、の「やり方」が問題なのだ。

これは、仕事自体が「人権」と深く関わる場合の多いNPOやNGOの場合にも、分かりやすい視角を提供するだろう。地域の高齢者の暮らしをよくすることをミッションとする、あるいは途上国の貧困問題を解決することをミッションとする、・・・そうした場合、そのミッション自体が人権の促進(promote)につながる。SRそのものだ。しかし、問題はその先に「も」ある。「どのように」promoteするのか、まで考えないとSR=社会的責任を果たすことにはならない。例えばスタッフの労働の問題などは、こうした位置づけのもとに捉えることができる。この話は二つ目のキーワードの伏線でもある。

二つ目のキーワードは「ふつう」ということだ。

「人権」というと自分の日常とは縁遠い、大切だとは思っているけれども何か「特別な」ものだと感じている方が多い。例えば世界人権宣言に書かれていることは、私たちの日常と深く関連する内容も多いはずなのに、である。従来の「人権」の語られ方など、これにはさまざまな要因が考えられるだろう。

人権は本来、ありふれた「ふつう」の日常の中にある。人が、そして誰よりも自分自身が、まっとうに、よく生きたいと願うとき、人権はなくてはならないものだ。それが不当に阻害されて実現されないとき、つまり人権侵害が生じたとき、はじめてその大切さに気づくことも多い。

CSRやSRの文脈でも同様だ。人権は日々の、「ふつう」の仕事の中で考えなくてはいけない。特別なものではなく、「ふつう」の、すぐれて「仕事」の話なのだ。日々の仕事が人権にマイナスの影響を与える結果になっていないか、なる可能性はないか、直接目の前でなくても、まわりまわってそういうことになってはいないか、それに気づき、つきつめて考え、もしそういうことが考えられるなら、しっかりと対処する。これが人権デューディリジェンスだ。舌を噛みそうな難しい言葉だが、難しい話ではなく、要するに問題発見と対処の仕方の処方箋、方法論である。世にあふれるありふれた仕事のノウハウの一つであり、また仕事に費やす時間が生の多くの部分を占めるとすれば、よく生きようとするときの生き方の技法でもある。

時代の流れは速く、流行(はや)りもうつろいゆく。最近気になるのは、CSR(SR)とは本来何か、どう取り組めばいいのか、というベーシックな議論をあまり目にしなくなったことだ。目の前の仕事をこなすのは大変だし大切だ。でもやはり時には立ち止まって考えてみたい。「やり方」と「ふつう」とうキーワードが、そんなときのちょっとしたヒントになれば、と思う。